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「笑」について
ひとりの詩人とひとりの作家の<いい言葉>を 吉本隆明さんが書いている “笑は天の美禄 何処か遠いところからの上げ潮 まったく栩栩(くく)としてをかしいのは ベルグソンの知らぬ世界 花が咲くのは何と滑稽 箸のころぶは何と不思議” この文章は高村光太郎の「笑」である ベルグソンの『笑』を風刺したもの ベルグソンとは フランスの哲学者 吉本さんは 高村光太郎のこの<言葉>は “「笑」は笑うもので 「笑」について考えるものじゃない”ということを 言い表しているという “着想のすばらしさ 論理の切れのよさ 考察の緻密さを発揮した優れた哲学書” ベルグソンの『笑』とは そんな本 “「笑がこぼれている瞬間を この詩人は何よりもいいと思った”と書いているが 自然なこと ありのままでいること 率直であることが何よりというのは 吉本さんも<そうありたい>と思ったからであろう “『笑』についての考察など 比べものにならない”というのは 自分自身を振り返って <考察>についての実感として 常々心の中にあったのではないか “人は完全のたのもしさに接すると まず だらしなくげらげら笑うものらしい 全身のネジが 他愛なくゆるんで 之はおかしな言いかたであるが 帯紐といて笑いといったような感じである 諸君が もし恋人と逢って 逢ったとたんに 恋人がげらげら笑い出したら 慶祝である 必ず 恋人の非礼をとがめてはならぬ 恋人は 君に逢って 君の完全のたのもしさを 全身に浴びているのだ” これはもうひとりの作家である 太宰治の『富嶽百景』に出てくる 随分長い引用である 恋人の「げらげら笑い」 “わたしはいつもこの言葉をおもいだすと 手を叩きたくなるほど感心する”そうだ この詩人と作家のいう「笑」は “とてもよく似ている”という 詩人の上げ潮のような自然な「笑」 作家の記したたのもしさの表白である「笑」 その二つの「笑」に対して “いささか歪んでいじめに溶けたにやにや「笑」” それが自分自身の「笑」だという この三つの「笑」に共通して関わるものが “無意識のエロス”であり “エロスの緊張性ではなく 解放感に関わりがあるにちがいない”という 何だか 吉本流の解釈に引き込まれそうだ
週刊新潮に
そんなタイトルのインタビュー記事が載っていたらしい 朝日新聞の「吉本隆明さん悼む声」の記事中に “吉本さんは 昨年の東日本大震災と原発事故をテーマにした雑誌取材にも応じていた 反原発を「人間の進歩性 学問の進歩の否定」と批判し 原発は「どんなに危なくて退廃的であっても否定することはできない」 と語ったとされる記事は議論を呼んだ” という箇所があった この記事が気になっていた 文中では<語ったとされる記事>とある あくまで<語った記事>ではなく<・・とされる記事>である この雑誌取材に応じたインタビュー記事とは 週刊新潮だったのだろうか 吉本さんは原発を肯定したのか この新聞記事だけでは判断ができない 雑誌インタビューにしても部分だけを強調して あたかも全体を言い表すような ものではなかったか だとしたら 吉本さん自身がしっかりと説明したことだろうが・・ 佐高信さんが『原発文化人50人斬り』の中で 吉本隆明さんを取り上げ こう批判している “吉本は「問題は恐怖心や倫理性の組織化だ」と言うが 吉本が原発についての恐怖心を持たないのは ただ鈍感だからである” “「原子力発電所問題でも何でも 倫理から見るのではなく 技術者や科学者だったら どれくらい危ないか安全か そんなことはわかるわけですよね だから 「『見に行けばいいじゃないか』というだけの問題なのに みんなこじらせてしまうわけです”(『原子力文化』1994年10月号) との吉本さんの発言に “寝言以外の何ものでもない”と手厳しい タイトルも「耐用年数の切れた蛍光灯」と揶揄し 吉本さんを“老残”と言ってのける 本当にそうなのだろうか 吉本さんの<真意>は何か・・と気にかかっていた 最新の『週刊金曜日』で 坂本慎平(評論家・ジャーナリスト)さんは こう書いている “人は話の流れで すべての真意を伝えきれるわけではない・・ 今のうちに真意を問うておかなければ ・・”と 週刊誌での発言が 吉本さんの最終見解になってしまうことを危惧して 10分ほど対話をしたそうだ 吉本さんは対話の中で こう語ったという “「原発が人類の選択として正しいという意味ではない 人類は 安全性の高い別の発電技術を進歩させる叡智も持っている”と 坂本さんはこの<言葉>こそが 吉本さんの“最後の真意だと解釈する”と理解する この理解の方がすっきりする 「『反原発』で猿になる!」 「耐用年数の切れた蛍光灯」 と言い切る<表現> これとよく似た<表現>が喝采を浴び 世間を闊歩していることに 違和感を覚えるのは へそ曲がりの解釈なのだろうか
妻がある人にこう言われたそうだ
「娘さん片付いたの?」 同じ女性が女性のことを「片付く」とは何?! 「そんな言い方ってあるの!」と憤慨していた ひな人形を仕舞う段取りで 「おひなさま早く仕舞うを繰り返す」の 川柳を作った我輩としては 内心ドキッとした 「まるでモノ扱い」と その舌鋒は鋭かった 妻の話を聞くうちに 滋賀県の嘉田知事の話が頭に浮かんだ “首長が育児休暇を宣言した時 最も強く批判したのが60代女性 つまり私たち団塊世代だったという 思いあたるフシがある 1970年代 男性に伍して学業を終え 資格をとっても「女は家庭」と 専業主婦にならされた女性たちの <うらみ>が込められているようだ”と 「専業主婦にならされた女性たち」 の<うらみ>か・・
『atプラス11』の中で
社会学者の大澤真幸さんが こんなことを書いている “われわれは すでに死んでしまった過去の世代のおかげて 現在 生存している 簡単に言えば われわれは 過去の世代に「借り」がある しかも 過去の世代は もういないのだから その借りは返さなくてもよい借りである それならば 今度はわれわれが 未来の世代に対しては いかなる返済をも要求することなく貸してやったらどうだろうか” アメリカの政治哲学者 ジョン・ロールズが『正義論』で提案した論理を引用し 論じている 《将来世代のための「貯蓄」》という発想 今や「貯蓄」どころか <将来>ではなく<今(現在)> 自分たちの<時代>で汲汲としている この閉塞感 <政治>は混迷し解決能力のなさを露呈している なのに 一方では 「絶望の国の幸福な若者たち」という<言葉>がある <幸福>なのか <絶望>なのか どちらに比重がかかっているのか そうでも思わざるを得ない状況 <生き続ける>のだから<絶望>では生きていけない 保身を続ける政治家たちが 《将来世代のための「貯蓄」》という発想を持つならば 混迷から光明が見えてくるのかも知れないが 期待は益々薄れていく 末法の世に現れた親鸞のように 不安・恐怖・絶望・憎悪が渦巻く末法の世(五濁悪世)を救う 弥陀の本願 唯“南無阿弥陀仏”と唱えよという そうしたものが現れてくるのかも知れないが よくその<正体>を見極めなくてはいけない 確かに今 <時代>の変わり目に差し掛かっているのだろう <社会>の在り方が大きく<変化>しつつある それは良くもあり悪くもあり 揺れ動きせめぎ合っている その中を流されずに<生き抜く>ためには 《将来世代のための「貯蓄」》という発想を大事にしなくてはならない と ぼんやりとそう考える
朝日新聞の夕刊に『人生の贈りもの』という欄がある
1月13日まで6回に分けて 瀬戸内寂聴さんへのインタビュー記事が掲載されていた 寂聴さんは言うまでもなく 作家で僧侶でもある この寂聴さんの人生はまことに波乱万丈 自身でも 『晴美と寂聴のすべて』『いずこより』という自伝小説を書かれている 小説家の宇野千代さんの生き様も情熱的だったが (『生きて行く私』という著書を読み圧倒された) 寂聴さんの生き様も凄い <晴美>と<寂聴>を生きる 晴美時代に書かれた小説『遠い声』を若き日に読み 衝撃を受けた 何と真っ直ぐな人なのかと それと何というか・・情熱家 その生き様 その寂聴さんが 「希望は奇跡を生む」と言う 東日本大震災と向き合い語った<言葉> “つらいことは涙でいっぱい吐き出したら 希望をもって楽しいことを考えてみませんか きっと奇跡が訪れます 生きるとは 自分の存在が誰かの役にたち 他者を幸福にすることです”と 「生きるとは何か」 寂聴さんの人生に貫かれているその<精神> <心>を知ることができる 僧侶でもある寂聴さんは こんな<言葉>も教えてくれる 「和顔施」 それは仏教のことば “「幸福は笑顔にやってくる」という意味です”と 寂聴さんが幼い頃 お母さんから聞いた<言葉>だと言う 「希望は奇跡を生み、幸福は笑顔にやってくる」 まさに人生の贈りものといえる<言葉>だ
「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」
本当にそうなのか この<言葉>は 医師でありアフガニスタンで 「“命の水路”」を切り拓く事業を展開している 中村哲さんとペシャワールの活動を伝えようと 作家の澤地久枝さんが聞き手となり 中村さんの話をまとめた本の題名である 戦乱と干ばつに苦しむアフガニスタンの人々に 必要な事業を進める 2001年の衆議院 テロ対策特別措置法の審議の参考人の一人として出席し 中村さんはアフガニスタンの現状を語る “「病気はあとで治せる まず生きておれ」と 水源確保事業に取り組んでいる” 恐れているのは“飢餓である”と その信念で活動を進める 「アフガンとの約束」と本の題名にはある 澤地さんはこう語る “どん底の人たちとの密接なふれあい 多くのボランティアや働き手と生活をともにして 中村医師は無類の「人間好き」になったと思われる 「人は愛すべきものであり 真心は信頼するに足る」という一つの結論を胸に 医師はアフガンの空の下 水路の完成に全力をあげている”と 「人間好き」 そうなのだろう そうでなければ 「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」 とは到底言えないだろう 中村さんはこう<言葉>を変えて言う “人として最後まで守るべきものは何か 尊ぶべきものは何か” それが中村さんの行動原理になる 「人は愛するに足り、真心は信ずるに足り得るのか」 このメッセージに対してまだ答えは見出せていない
このタイトルは
中村雄二郎さん(当時:明治大学教授)が 1971年9月に発行された雑誌『思想』(岩波書店)の「思想の言葉」で 用いている<言葉>である 中村さんは哲学者である 「状況」と「情況」の違いを彼はこう書く “漢語には「情状」という成語がある この場合 「情」とは「心のうちに働くもの」であり 「状」とは「心が外にあらわれるもの」であるとの区別が立てられている ふつう「なさけ」を意味する「情」から 「情感」「情火」「情死」「情恨」などの成語がつくられているが これらについては「状」では置きかえられない とすれば 「情況」とは 感情や情念によって強く色づけられた「状況」であると言っていいだろう 裏からいえば 「状況」が感情や情念によって強く色づけられるとき「情念」になる”と 思想は “感情や情念によって強く色づけられた「場面」が強く支配する日本語の世界” で営まれると言う そして “思想は「場面」にとらわれていいものだろうか”と自問する 思想はむしろ “「場面」や「情況」をまず超えることが必要であろう 超えることによって かえって 醒めたかたちで「場面」や「情況」のうちに生きうることになる”と考える 「われわれ」とは何かも説く “本来「われわれ」とは われと汝(ら) われと彼(ら) (つまり われならざる他者)を含んだものであり 決して「われわれ」の一体性は自明なものではない ” そうであるのにかかわらず “自明なものとするところに 党派 組織から 国民全体の規模にいたるまで 各個人に対して 当然なこととして一体性を強制することになる”と “「情況」そのもののとらえ方が 「場面」的拘束にとらわれていることへの明確な自覚を欠くとき 事態は楽観を許さない”と鋭く分析している 今の日本の「情況」世界の「情況」を 見た場合にどうか 中村さんの警鐘は今の世にも示唆的である 彼はこう締め括る “それどころか そこには大きな陥穽があるように思われる”と この陥穽にはまってはならない どうぞ皆様 よいお年をお迎えください
“選択肢っていうものは
多ければ多いほどいい アマルティア・センのいう機会集合と同じ 選択というのは 知っていて選ぶのと 知らずにそれだけしかなくて選ぶのでは 大きな違いがある たとえ結果が同じになったとしてもね” この<言葉>は 『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります』という 本の中に出てくる 1985年生まれの古市憲寿さんが 1948年生まれの上野千鶴子さんに 親の老後や介護問題 世代格差の問題などを聞いていく “人って 今あるものをあたりまえだとおもっちゃうじゃないですか” これは古市さんの<言葉> “ウザいとかキモいとかムカつくっていう気持ちから 何かを変えていくのが 運動や変革の萌芽ということですか” これも古市さんの<言葉> ウザいキモいムカつくという 今あるものに どう対応するのか ここら辺りが 今目の前に起こっている社会現象を説明する鍵になるのだろう 運動や変革に結びつけるものは何か “どんなに自己中心的な人間であっても 自分の隣にいる人 自分が大切に思う人には幸せになってほしいと願うじゃないですか そう考えると 幸せっていうのは 自分一人では成立しえなくて 少なくとも自分の周りにいる人間が幸せであることが 自分の幸せに関わってくる その大切に思う範囲がちょっとずつ広がっていった時に たとえばウザいとかムカつく 変だっていう気持ちの輪みたいなものが広がって それが何かのムーブメントになる可能性もあるってことですね” 古市さんはそう考える “あなたをつかんで離さないものが あなたの問題 ウザい とかムカつく とかという感情を大事にしたらいい まさにそれに気づくことからはじまるのですよ” 上野さんは最終講義の中でも この<言葉>をメッセージとして使っている “問題って あなたをつかんで放さないもののことよ” “あなたがたの世代に伝えたい” “バトンを・・どうぞ受け取ってください” 上野さんの活動はさらに精力的である
東京都市長会のホームページに
昨日ブログに書いた小金井市長の紹介ページがある 市長であった佐藤和雄さんが <好きな言葉>としてここに挙げているのは 「疾風に勁草を知る」 「疾風に勁草を知る」とは 後漢書「王覇伝」に在る<言葉>である 広辞苑には 「はげしい風が吹いて初めて強い草が見分けられる 艱難にあって初めて節操の固いこと 意志の強いことがわかるたとえ」とある 座右の銘としては 素晴らしい<言葉>である 佐藤さんは辞任の記者会見でこう述べている “今回の事態は私の選挙公報等での主張に端を発するもの” その主張は“配慮に欠くもの” “確かな足取りを示すことができず”“責任を果たすこともできず” と・・その<言葉>は散々だ “市(市民)を人道的な立場からお救いいただきますよう”と そうまで言う心境は・・ 投げやりになるのではなく 全力で尽くしたのだが “苦渋の末の決断”だったのか 「疾風に勁草を知る」の<言葉>を どう噛みしめていたのだろうか “認識が甘かった”では 首長・リーダーとしてはあまりにもお粗末すぎる そう切り捨ててしまうのは酷なのだろうか
先日
筑紫哲也さんと話をしていたときに 西光さんがお書きになった水平社宣言 これは日本の人権について書かれたいろんな文章があるけれども そのなかでいちばんすばらしい文章だろうということで意見が合いました で 水平社宣言のいちばん最後に 「人の世に熱あれ 人間に光あれ」という あの言葉の重さを考えようと筑紫哲也さんと話していたんですね このときに「人間」を「にんげん」でなく 「じんかん」と読むべきではないかという話になりました 「時間」「空間」の「かん」です たしかにお経では「じんかん」と読みます 西光さんはお寺の出ですから 「人」と「人間」を「ひと」と「じんかん」に書き分けたのではないか 人と人との間 つまり“すべてのものに”という意味です <『人間宣言』 住井すゑ 永六輔著より> 光文社 知恵の森文庫版 23ページ 前のページ次のページ
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